本当の敵は自分の中にいると思えるか

仕事

こういう仕事をしていると殆どが紹介で成り立っているので、必然的に母と娘と孫、夫婦などで治療に来ている人が多くなります。先日、母親の方から「最近娘は来てますか」と聞かれたので「ええ、時々・・・。」とあいまいに答えました。何しろ質問そのものがあまり上手くいっていない感じでしたし(親子であっても守秘義務があります)。

母親は介護付き有料老人ホームからタクシーで来ており、娘さんは自宅から来ています。「最近(娘が)怖くてねえ」「昔はとっても聞き分けがいい子だったんですけどねえ」と独り言のように言っていたのがちょっと気になっていたので、娘さんが治療に来た時にそれを何気なく聞いてみました。

聞き分けがよかったのは「だって我慢していたんだもの・・・」細かいことによく気が付いてしまう本人のせいで母親の顔色をうかがいながら気に入られるような、大人にとって「良い」ことだけをしようとする子供になってしまったのでしょうか。

いわゆる「良い子」はそのように育っていくのです。本人は無意識にいい子だったのかもしれません。きっとそうでしょう。でも気付かぬ間にモヤモヤは溜まる。それだけに溜まった時のストレスは相当なものになるのです。それは妻(や母)となってからも相手を変えて続いていたのかもしれません。

気付かないからこそ長い時間をかけて少しずつオリの様に溜まっていったのでしょうか。これ以上細かいことは書けませんし、どっちがどうとは云えませんが、娘さんの方は50歳代後半で母親への気持ちの自主規制、子供の独立、仕事の人間関係等々諸々の抑圧が及ぼす心身(つまりは自律神経)への影響がコップの水が次の一滴で溢れるように限度を超えて一気に眩暈、蕁麻疹として出現してきたのだと思います。

家事も仕事も手を抜けない、ある意味不器用な性格のためそういった状況下での治療ではなかなか効果が出ませんでしたが、眩暈専門外来で薬を処方されたりその副作用が強すぎてやめたり鍼灸治療を再開したりの一進一退もあって少しずつ改善し「やっと(自分の症状を)受け入れられるようになりました」と言われた時に、ああこれで大丈夫だと思いました。

こういった愁訴に限らず悩み、不満は現実を受け入れられない故に悩み、葛藤として存在する(「なぜ私だけがこんな病気に?」「なぜ私がこんな苦労を?」)訳で自分がその状況を受け入れられさえすれば当然それは悩みとはなり得ません。

受け入れられるとは一つの身体の反応であると受け入れることです。原因があって結果があります。心の中に自分の中で納得していない、無理があるからちょっとしたことが引っかかる、平穏な心ではいられない。でもそれを我慢して仕事をする、その繰り返しが精神や肉体にダメージとして蓄積する・・・。

僕の仕事は「全ては自分のせいである」とそう彼女が自ら思えるように張りつめた精神状態を緩めるような作業をしています。そうは云っても簡単に愁訴は消える訳ではありませんが大丈夫だと思えたのは、受け入れられるようになったことこそが彼女の心に余裕(=症状改善のきっかけ)ができた証左だと思っているからです。

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