願えば叶うと言いますがどうなのでしょうか。些細な願いから大きな願いまで様々あるでしょう。
確かにその願いに向かって精進努力することはエネルギーがある人、目差す目標が明確に定まって定まっている人には思いが自然に行動を変えてゆくことで結果が変わってゆくという意味では有効な言葉なのかもしれません。
しかしそれがすべて正しいのでしょうか。
例えば、今ここにある雨風をしのげて贅沢はできないが食うに困らない収入と平和でそこそこ安定した日々があること。
そう考えてみるともっと上の幸せを願うよりも今のこの幸せに気付くこともまた大切なのではないかと思えてくるのです。
これ以上の幸せを願うのもまた自然なことですし、より良い人生のために目標があることはそれで価値があるものです。
しかし、そこに執着してしまったりそれが全てとなってしまうと年齢やライフステージにもよりますが「じゃ今は幸せじゃないのだろうか」「これではダメなのだろうか」という感覚にもなり得ません。
カーネギーの言葉に「人生とは今日一日のことである」というのがあります。
長い人間の一生も突き詰めれば昨日、今日、明日の一日一日の積み重ねに他なりません。
今日の一日を大切に積み重ねて生きてゆく、それしかないのだと理解しています。
仏教にも「一日一生」という言葉があります。一日を一生と思って生きる、つまり今日この一日を無駄にせず精一杯生きよう、明日はまた新しい人生、といった解釈をしていますがどちらも同じ意味だと考えていいでしょう。
そう考えると冒頭での「願えば叶う」とか「思考は現実化する」という言葉もまた違った感覚で感じられるのではないでしょうか。
前のめりになって遠いところに高い目標を設定して追いかけるよりも今日一日、明日一日を着実に大切に過ごす、丁寧に暮らす、一歩ずつ歩んでいく。
その小さな一歩の積み重ねこそが生きてゆくうえで最も忘れてはいけない唯一無二の心掛けなのではないかと思えてきます。
この言葉を意識していると焦ることもなくなります。あわてることもなくなります。今日できることをしっかりやるしかないと思えるからです。
諦めることもなくなります。少しずつ進めばいいのだと思えるからです。無理もしなくなります。今日と同じようにまた明日頑張ろう、頑張ればいいと思えるからです。
人の評価も気にならなくなります。一生懸命やったことを自分自身がわかっているからです。
他人の目を気にする人は基本的に自己評価が低い傾向にあるのですが、それではいけません。
上手くいこうがいくまいが一生懸命やったら“今日という人生”は寝るときに終わるのです。
そういう考え方ができれば今日を悔いなく一生懸命生きることができるでしょう。
そして明日、運良く目覚めることができたら、また新しい人生が始まったと感謝し喜びその一日を丁寧に生きるのです。その繰り返しです。
「溌溂と生くる者にのみ深い眠りがある。生き切った者にだけ安らかな死がある。」
野口晴哉 「偶感集」 全生社 より



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