現代医学は自然科学ですからまさに日進月歩です。次々に新しい薬が認可され診療ガイドラインの改訂を待つどころか少し確認を怠るとどんどん置いていかれます。今でも未知の領域も多く今までの常識があっさりひっくり返されることなど多々あります。
現代医学の本はわずか10年前の本でも次々新しい発見、手技、薬が出されるので改訂が入っていないと情報の古さへの不安を感じてしまいます。
13年程前に午後発熱から夕方高熱が出てきたのでこれはタミフル®(オセルタミビル)だと思い、処方してもらおうと朦朧とする身体で自宅近くの内科を探して行ったところ年配の医者は喉を見てポカリスエットでも飲んでおけと抗生物質を処方され、しかも本人も風邪らしくマスクもせずにゴホゴホと咳をかけてくるという有り様。
こんな非常識で不勉強な医者もいるのです。2軒目で迅速検査(当時は綿棒で鼻の奥をグリグリ)により確定診断後にタミフルにありつけたのですが、とんだ災難でした。
それに比べて東洋医学はもともとが蓄積された知識の古典ですから今更考え方、哲学が変わることがありません。二千年前に書かれた文献を読んで理解を深めるのが東洋医学なのですから。
養生訓などは健康長寿を実現した貝原益軒が経験、実践した生活全般のノウハウを語っているので説得力がありこれも江戸時代から読み継がれています。渡部昇一も最晩年の著書で「若い医者の言う健康法よりも長生きした人が説くやり方が一番自分に合っている」と書いています。(「実践・快老生活」 PHP新書)
本来、健康な生活習慣、身体にいい食べ物は時代遅れにはならない、時が変わっても評価が変わることがないはずですが、快適さ手軽さ便利さの追求そして(余計な)企業努力によって却ってよくわからなくなっていることがあります。
例えばわざわざカロリーゼロ、糖質オフ、もしくは低カロリー(≒栄養のない)食べ物を選択しわざわざお金を払って買う。単に食べなければ太らないし、生活習慣病からも距離を置け、何しろお金も減らないのに。
ヒト(ホモサピエンスで45万~25万年)として地球に存在して以来ずっと、そして先の戦中戦後の物のない時代から70年でこんな時代が来るとは・・・。食事は生きていくためのエネルギーを摂取するための行為のはず。でもそれを現代人は当たり前のように否定するような行動をとっています。
何故でしょう。それは長い間をかけて飢餓対策として身につけた対策(食欲)を今さら変えられない(抑えられない)からです。でも太りたくない、健康を害したくないというジレンマがあります。
食事量、運動など生活習慣の改善には目をつぶってサプリメントや飲み物(カロリーゼロ、糖質ゼロ、トクホなど)だけに気を使っている気休め対応パタンなどよく目にします。
そもそも安定した精神状態、身体の状態であれば基本的な栄養、食欲が足りているなら食欲をコントロール出来るはず。それがストレスやいつでも手軽に食べたいものが食べたいだけ(動かずに)手に入る現代の先進国のヒト社会が動物としては考えられない歪んだ食生活を生み出したともいえます。
所得も上がり、何もかも便利になったのに却って長時間労働になり、身体の不調を抱えていたり、過重なストレスで精神的に不安定さを抱えて鍼灸治療にたどり着く患者さん。収入が増え生活が豊かになったように見えても、実際は我慢して働いて疲れ果てて眠る、そのストレスを吐き出すようにここぞと消費する、この繰り返しでは何のためのキャリアなのかと思ってしまいます。
ロンドンビジネススクール教授のリンダ・グラットンが「ワーク・シフト 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」という著書で大量消費主義を脱却して家庭や趣味、社会貢献などの面で充実した創造的経験をすることを重んじる生き方に転換することを〈第三のシフト〉として指摘しています。
大量消費から充実した経験への移行という〈第三のシフト〉を実践した人は、楽しい経験をすること、ほかの人と一緒に時間を過ごすこと、取り組みがいのある課題に挑むこと、価値あるものを生み出すことを重んじるようになる。所得と消費に代わって、経験とやりがいが勤労の主要な原動力になるとすれば、どういう仕事を選び、どういう専門技能を習得するかを慎重に検討したほうがいい。
単純に豊かな時代になったから幸せ、たくさんお金を稼いで使っていれば幸せというわけではないということを疲れた企業戦士たちを治療していて思うのです。
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