メメント・モリ

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臨済宗のお寺の住職が座禅会の講話の中で、「産院で息子が産まれた時に、こうやって生まれて来たこの赤ん坊もいつか死ぬ時が来るんだなと思った」と身も蓋もない話で参加者が苦笑していたことがありました。

いくら通夜、葬儀でお経をあげ、人の死を目の当たりにするのが日常である仕事とはいえあくまで個人的な、自分の子供が産まれたときにもそういうことを考えるものかと印象深く思いました。

一般的な感情としては目の前の3㎏程度の自分では何もできない小さなわが子を見て「この子のために頑張らなくては」と責任感で身が引き締まる思いというならわかるのですが、いや、当然それもあるのでしょうが。

出家して仏門に入った僧侶だから達観しているのは当たり前と言えばそうなのですが・・・。

確かに冷静に考えれば「おぎゃー」のその瞬間に砂時計がひっくり返されたのは紛れもない事実なわけで、その砂が多いか少ないかはまた別の話ですが、その終わりから最も遠い始まりの瞬間なのに、やがて訪れる(父である住職すら見ることのできない)彼の終わりを思ってしまう。無常です。

歳をとってくると好むと好まざるにかかわらず身体はすべからく壊れてきます。築60年の家に例えたり、20年落ちの自動車に例えたりして(完治させられないところを誤魔化して)患者さんに無理やり納得してもらい治療をしている日々です。

結局のところ、究極のところ人はつまり生物は生まれて生きて死んでゆく、行き着く先は向こう岸なわけで常にメメント・モリ(死を想え)なのです。四苦とは生老病死。この苦しみから逃れることはできません。

「一日一生、今日一日を大切にやっていきましょう」などと言うと時折、死の準備みたいで嫌だと言われることもあります。

ですが、これは生に対する考え方そのものの問題なのですが、死の準備みたいどころか死の準備なのです。だからこそよく生きようとするのです。

そう考えると最も大切なのは限られた命であり、人それぞれの(それなりの)健康であることに気付きます。この人生のこの一日、今この時間を無駄にできないと思うようにもなるのです。

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