今がそこそこ幸せだと思えるか

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遠い昔の話です。僕が能天気な高校生だった頃、毎日まじめに仕事をする当時50歳代になった今は亡き父親に「親父って今、人生何か楽しいことあるの?」という質問をしたことがあります。

相手が父親だけに遠慮も悪気も打算も一切ない、その時は素直な質問だったのです。高校生の僕に父親は怒りもせず「いや、意外と楽しいんだよこれが」と答えてくれました。当時の僕は理解できずに「ふ~ん」と答えたと思います。

紆余曲折がありながらも頑張って家族のために働く50過ぎの父親のキモチなど、何も考えていなかった高校生ごときに解るはずもないのですが、やはりよくできたもので自分が50歳を過ぎてからその年齢の人の気持ちがやっと解るようになるのです。

「あんたも母さんの歳になったら解るわよと言われたけど」というのは患者さんがよく言う、母親に言われた言葉あるあるです。

自分の父親に質問した当時の父親の年齢もゆうに超えた僕が同じ質問をされてどう答えるかと考えてみると、これがやっぱり「そこそこ楽しいよ」と答えると思うのです。

そして、それと同じ感覚で「そこそこ幸せだ」とも思えるのです。小林一茶もかなりいろいろあった今の僕くらいの年齢で「めでたさもちゅう位なり」と詠んでいます。

人間はその環境に適応して生存、繁栄してきました。逆境を生き抜ける体力、逆境を乗り越えるメンタル、そういうポジティブな種が生存し、続いてきたとも考えられると思います。

10代、20代の時には自分に50代の時が訪れるなど考えもしませんが、必ず人は歳を取り、体が衰えそれなりの境地に達します。しかし、それがこの世の終わりへと近付いているかというと、むしろそのような感じよりもあのころとは全く別物の自己肯定感と充実感もあります。

それはその年齢になったら解るとしか言いようがありませんが、少なくとも僕も今、これはこれで幸せだと思えてしまっているのです。

おめでたい種なのかそうならざるを得ないのか。この能天気な17歳の時よりさらに能天気なありえない勘違いの連続が、人生80年100年の時代を生きる基礎となり、支えとなっているのかもしれません。

参考:『ファクトフルネス』 ハンス・ロスリング他 日経BP

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