近所にある江戸川区の第二松江小学校が閉校しました。
「江戸川区文化スポーツプラザ」という区の施設になってしまうということで名残惜しく思っていたところ、ちょうど選挙の投票会場になっていたのです。
いつもは仕事場のある平井で期日前投票をするのですが、校舎へのお別れの意味も込めて当日投票へ行きました。
閉校して間もなかったのでまだ小学校そのものなのですが、もう「小学校」が過去なのです。
そう思うと教室のプレートや、貼り紙、校歌が出来たいきさつを標したプレートなど学校としての息づかいが感じられる分、かえって胸が痛みました。
この小学校は荒川(放水路)を作るにあたって水没する松川尋常小学校から分立し南葛飾郡第二松江尋常小学校として開校しました。
大正三年のことなので108年の歴史を閉じたということになります。
校歌が出来たのはずっと後の昭和37(1962)年で開校から45年もたっていました。
その時に母親たちがメリヤス製品を行商し、生徒たちが1円玉貯金をして資金を調達したことが先述のプレートに記されていました。
投票経路にある立ち入り禁止の教室の中をのぞきながらアップライトピアノやステンレスのワゴンなど処分してしまうと先生に聞いていたのでメルカリで売るとか、欲しい人にあげられないのかと思ってしまいました。
廊下においてあった木製で手作りの赤く塗られた(投書)ポストなど味があって自宅のポストにと貰って帰りたいくらいでした。
よく「ご自由にお持ちください」などと瀬戸物なんかを玄関前に出している古いお宅の前を通ったりしますが、そういった気持ちです。
エレジー感覚もありますがまだまだ使えるのに勿体ないと思ってしまうのです。到底ミニマリストにはなれませんが全ての物には魂が、とも考えます。
そんな中で一番気になったのは通用口を入ってすぐのところに掛かっていた掛け時計です。見た目は1メール以上あったように感じました。
もちろん振り子は動いていませんでしたが昔ながらのそれこそ、大きなのっぽの古時計です。
文字盤に「SEIKOSHA」とありました。SEIKOではなく。
検索したら「SEIKOSHA」の表示は1960年代初期までとありましたので、遅くとも校歌ができた頃までに贈られたものと思われます。
振り子のガラス部分に「贈・昭和九年卒業生一同」と名入れがあり、そこもまた引っ掛かりました。
昭和九年卒業といえば尋常小学校で10歳か高等小学校で12歳。大正13(1924)年か大正11(1922)年生まれですから終戦の昭和20年には21歳か23歳です。
この昭和九年の卒業生、男の子なら“生き残って”時計を贈った卒業生たちはどんな気持ちでこの大きな時計を小学校に送ったのかと思いを巡らせたのでした。
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