現代社会のような効率ばかりを求める文化に慣れてしまうと手間を省きさえすれば何もかもうまくいくような感じがしてきます。
しかしそれには落とし穴があるのではないかと感じています。
洗濯機や掃除機、食洗器といった省力化のための家電ができ、そしてそれぞれが昔から考えるとあり得ないほど進化し便利になりました。
洗濯物を入れスイッチを押すだけで適量の水と洗剤で洗濯をしてふんわり乾燥までしてくれる。そしてそれが当たり前の世の中になっています。
しかし実際は全然生活を楽にしていなかったという側面もあります。
それはつまり生活のレベルに対する社会や周りの期待値が上がってしまい省力化のメリットを相殺してしまったということです。
ほとんどの家族が共働きになり収入は増えましたが、そのためより高い住宅ローンを組みそれを支払うために更にいい給料を求めより長い時間、より強いプレッシャーにさらされる。
これは高給で働く人も、相対的に低いと言われるカテゴリーの人もそれぞれの収入レベルで同様により上を目指し無理を続けるということです。
しかしそれを継続していくのは基本的に無理なことだと考えます。自分の能力より多くの事、成果を出し続けなければならないというのは不可能なのです。
それに対応するようにタイムマネジメント、仕事効率の本は驚くほどたくさんあります。それはとりもなおさず現代人はみな時間が足りないと考えていて、それをもっと効率よくできるはずであると。
そうすればもう少し仕事を詰め込んでも大丈夫だと感じている、感じさせられているからだと思います。
朝2時間早く起きてフレッシュな頭をクリエイティブな事に有効に使おうとか、タスク処理能力を上げて優先順位をつけて仕事をこなそう等々。
しかし問題はそこではなく効率とか努力とかではなく根本的なところ、そうしなければならないという前提そのものが違っているかもしれないとは考えられないでしょうか。
そもそもその仕事の量は達成可能なのでしょうか。もしそれを何とかクリアしたとしても会社や上司は期待を込めて次のタスクを課すでしょう。
そこにストレスのない休日、家族との時間は存在しづらいでしょう。結果、先に述べた家電の話と同じになってしまいます。いくら効率を上げ処理能力を上げても、更に忙しくなるのです。
「仕事の量は完成の為に利用可能な時間をすべて満たすまで膨張する」というパーキンソンの法則というのがありますが、時間があればあるだけやるべきことで使ってしまうということなのです。
このデスマーチの解決法はちゃぶ台返しになってしまいますが、効率化に正解があるという考えを捨て「自分ができる範囲のことをし続ける」という身も蓋もないことだと思います。
いくら効率よくできて処理能力が上がってもキリがないのです。だとすれば「無理をしない」ことです。
都会から地方に移住する、高給を捨てわざわざ不便な田舎暮らしにライフスタイルを転換する人が話題になったりするのもそういったことなのではないのでしょうか。
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