何気ないごく普通の一日

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人間は歯が痛かったり頭が痛かったり一か所でも、身体の調子がほんの少し悪くても「具合が悪い」ということになります。

若い時や健康な時には気にもかけませんが一度そうなった途端、当たり前のように存在していた健康の有難さに気付かされるのです。

日々患者さんの身体に接して、そして同時に自分自身も日々歳をとってきて身体のあちこちが衰え不調も出現して、なおさら心身がとりあえず問題なく機能していることへの感謝といたわりの気持ちが起こります。

イメージ的には壊れやすい道具を大切に使う感じで日々体を「使って」います。

そこそこ身体が健康で、つまり日常的にはまず不自由なく暮らせて満足で、それ以上もう旅行も特別な買い物も外食もしたいとは思わないのです。

今さら物欲もなく、心穏やかに花鳥風月など自然の風景に生きている喜びを感じることができればもうこんな幸せなことは無いと思います。

完全に枯れています。

鴨長明が方丈記で書いているように心の平安を求め「ただしづかなる」こと、「憂へ無きをたのしみ」とすることを望んでいるのが年齢とともに、世界情勢もあるかもしれませんが自分なりに理解できるようになりました。

世界の独裁者のことをあきれ顔で言いますが、やはり戦争というのはこの世から無くならないのかもしれないと思ってしまいます。

よくロシア側や中国側との言い合いがありますが、ほんの80年前は我が国も似たようなことをしてきただろうと言われればそれはそれで一理あるのです。

戦争になれば多かれ少なかれ起こることは似たようなものです。

確かにそこからめちゃめちゃ学びましたけれど、それは今もまだその途上であるともいえると思います。

西暦2024年、これだけかかっても人間はまだこんなことをやっているのかという感じです。

少なくとも僕の周りの人々と患者さんだけは心穏やかに「生きているだけで楽しい」と感じてもらえるよう頑張りたい、いや、頑張らない・・。

何てことない普通の一日と心が穏やかでいられるこの環境の有り難さをかみしめて。

参考:『自分がおじいさんになるということ』 勢古浩爾 草思社
    『ソ連兵へ差し出された娘たち』 平井美帆 集英社

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