親の介護はギムなのか

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80歳代後半の患者さんから聞いた話です。

女学校時代からの友人からの電話だったらしいのですが、その内容は「40年同居した長男から、関西に住む長女(未入籍の男と同居)のところに行ってくれと言われ、今さら引っ越せというの?」という驚きと悲しみの訴えだったそうです。

この友人には90過ぎのご主人もいるのだそうですが、ご主人の方は厚生年金があるので老人ホームに入所させられたそう。

田舎の家を処分して夫婦で首都圏に出てきて共働きの息子夫婦とマンションで同居し孫の世話もしてやっと息子は定年、孫は一人前になった時にお疲れ様と言わんばかりに。

本人には相談なく決められたそうで、その怒りとも諦めともつかない電話を聞いているのが辛いのよと患者さんは言います。

また別の例(訪問治療をしている女性の話)では、近所の独居の友人が転倒して大腿骨骨折で手術したのですが、もう一人暮らしの家には戻してもらえず。

同じ平井に住む娘(70歳代)も迎え入れてはくれず、病院からそのまま移された老人ホームから毎日のように嘆きの電話をこれを教えてくれた私の患者さんかけてくる96歳の女性も同様の感情なのでしょう。

もう一例は母娘とも私の患者さんの例で以前に書いたことがあるので繰り返しませんが、これも母親には相談なしで老人ホームでした。

一面ではひどい子供のように捉えられなくもありませんが、この三例の子供さん達の気持ちも理解できます。

最初の例で言えば、子供も自立して定年を迎え住まいをダウンサイズして二人で暮らしたいというのも納得できます。

独身(?)の姉がいなければ話はまた別かもしれませんが、いるなら今度はそちらにお願いするのも選択肢なのかなと思います。

昔から「長男の嫁」は大変だという感じがありましたが平均寿命が延びた現在は自分達も歳を取るのでまさに老々介護、何なら御主人が亡くなっても義母の面倒を見ているという人も介護の合間に治療に来ていました。

市川から週に数回定年後の娘さんが平井の実家に様子を見に来るという患者さんも「やっぱり娘はいいわよ、よく気が付くからね」と言っていました。

「私も随分孫を預かったからねえ(それも当然でしょ)」というニュアンスです。

この、昔から受け継がれて来たであろう独特の損得勘定もわからなくはないのですがこれからの高齢化では支える子供たちの方が持ちません。

やはり親と子といえども個々の人間として独立した存在であり、相手が親とはいえ他人の人生を抱え込まないことが自分を犠牲にしないカギだと思います。

2000年4月に介護保険がスタートしたのもそういう不幸を生み出さないために、超高齢化社会を皆で何とか支えるために国が作り出した制度です。

こういった親や子には治療を通して何回か接しているのでそれぞれ両方の立場からの意見もあり微妙に境遇も違うので一概には言えませんが、身体を壊してしまう介護者ほど一途でまじめ且つ閉鎖的だということです。

こういう人は親のために自分を犠牲にしてしまいがちです。心身を壊してしまう前にもっと身軽になってもいいのではないかと思います。

自分も歳をとっていく訳ですから。

8050問題、9060問題とは子供の引きこもりの長期化高齢化問題に関する言葉ですが、介護でも同様なのです。

表題を正確に書くなら「親の介護は自分を犠牲にして自分でやらなければならないのか」ということです。

親の気持ちを考えて、自分の気持ちやりたい事を抑えつけてそれで果たして幸せになれるのでしょうか。

親の人生ではないのです。自分軸で考えるべきではないでしょうか。

難しいところです。

参考: 『母さん、ごめん』 松浦晋也著 日経BP社

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