コロナウィルスの流行でもう2年くらい開かれていないのですが、座禅会に通うようになって15年位になります。
なぜ始めたかと言われれば何となく魅かれたからとしか答えようがありませんが事実そんな感じでした。そしてやっぱりハマってしまいました。
谷中にある全生庵の平井正修住職がわざわざ船堀に来てくれています。ひと月にたった1回です。
谷中の全生庵では毎週やっているそうですがそれはちょっと無理です。月一だから休みなく長い間続けられ、通えるのかもしれません。
月一回のお勤めのような、みそぎのような、エクスキューズのような気がするのです。
30歳を過ぎた頃に暇すぎてほとんど毎日50mプールに通っては1500~2000mを一気に泳いでいた時期がありました。
座禅と比較すると全く静と動ですが心の中では同じ様な物を感じている気がします。
ランニングやサイクリングをする方でも分かるという方がいるかもしれません。
座禅、メディテーション、瞑想の作用をあえて文字にするなら非日常的な強制的シフトダウン、シャットダウンのような行為によって引き起こされる“脳の普段使っていないブラインドサイドの領域を刺激されるような感じ“というようなものがあります。
ひたすら泳ぐことも心肺に適度な負荷がかかることによって半ば強制的に何も考えない状態と云うか頭を空っぽにでき、それはそれで通常の覚醒状態にはない「無」の状態に意識せずとも近づけるということなのではないでしょうか。
「調身、調息、調心」という禅の言葉があります。
姿勢(身)を整え、呼吸(息)を整えると精神(心)が整うのだという様に理解をしていますが、そういう意味ではゆったりしたフォームでイーブンペースで泳ぐ、もしくは走るとやはり心が整う、無我の境と呼ばれるような精神状態になって、それにより爽快感、満足感らしき感覚が得られるのかもしれません。
瞑想が痛みのコントロールにいいのではないかということで大学病院で強い痛みの患者を集めて瞑想をしてみたら効果が出ているというのも、意識を無にもっていくことで、痛みに集中し痛みに囚われていた意識をひとまず切り離して何も考えない状態、何もない脳の状態を半ば強制的に設定することになるという道理です。
結果的には今まで感じ得なかった脳の状態、別の言い方をすればずっと痛みとして捉えていた信号を別の感覚で捉えることが出来るようになるのかもしれません。
座禅は座るスペースさえあれば誰でも出来ますがなかなか自分一人で個人的にやるまでには敷居が高く感じられます。
僕も自宅に座禅用の丸座布団を大小二種類揃えました。
しかし座るとなると実際は心がざわついた時や、中途覚醒してしまった深夜くらいなのですが。
やはり「無」なのは専ら半ば強制的な環境の座禅会だけというような状態なのです。
禅、座禅に興味のある方は是非試してみることをお勧めします。
「どうかしら」と思っている方は僕がそうだったように既にもう自分自身で魅かれているのですから。
参照:「ただ坐る」 ネルケ無法 光文社新書
「走ることについて語るときに僕の語ること」 村上春樹 文藝春秋
「囚われない練習」 平井正修 宝島社
「椅子がこわい」 夏樹静子 文藝春秋
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