村上春樹のデビュー作を当時たまたま本屋で買って読んであの文体の斬新さにかなりのインパクトを受けたのを覚えています。
それからは新作が出る度にすぐ買ってすぐ読むという事をしてきましたが、箱カバー入りで出た「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で全く読み進むことが出来ませんでした。
当時は仕事も忙しくて読みこなす体力もなく(後にそれがバブルという特殊な状態だったことが判るのですが)、そのあとの「ノルウェイの森」は読みましたがそれからは長編といわれるものは読まなくなり、いつしか短編も飛びついてまで読まなくなりました。
しかし、バブルが去り活気のなくなった仕事場で誰かが放置した文庫版の「遠い太鼓」という紀行文の淡々と流れる外国での時間の記録が疲れた僕にはしみじみと面白くそれからも長編小説以外の村上春樹はすべて読むようになります。
アンチ村上春樹に村上春樹を理解してもらうための方法として『小説じゃなくエッセイを読め』とチェコ好き(和田真里奈)というブロガーも書いていましたが、同感です。当たり前ですがエッセイにはメタファーが一切なくダイレクトな村上春樹そのものの人間性が出るのでわかりやすい(そして何より好感が持てる)という一言に尽きます。素敵なおじさん村上春樹という感じです。
文章表現はエッセイ(ノンフィクション)で十分だという歳になってしまったと表現すべきかもしれません。或いはもう小説を読むエネルギーがないというか読みたいと思わなくなったという方が正しいのでしょうか。映画も映画館に行くどころかお金を払ってまで見たいと思わないという感覚です。テレビも見なくなってしまいました。それこそ「やれやれ」です。
でも彼のノンフィクション、短編、エッセイは欠かさず読んでいます。小澤征爾との対談も興味深いものでした。文庫版のみ収録の「厚木からの長い道のり」も大西順子好きの僕にとって感慨深いエッセイでした。(YouTubeでサイトウキネンと大西順子のガーシュインを見ることができます)
読書に求めるものがまるっきり変わりました。人間は歳を取ります。加齢と老化は別物ですが見てくれが変わるように感受性も当然変わります。もう長編小説は読まないのかもしれないとは思いますがそれ以外は読み続けると思います。
村上春樹自身、本筋は小説で翻訳やエッセイはその間の息抜きというようなことを書いていましたが僕にはもう本筋には入り込めないのです。漱石の「こころ」を読んで魂が震えるほど感動した当時二十代の渡辺昇一が、歳を取ってから読み直して「あの感動は何だったのかと思った」というのに似ているのかもしれません。
個人的には人生経験が積まれる(ひねくれてくる)程、創作(小説)を読もうと思う気持ちも、そこに入り込む情熱(感受性かもしれません)もなくなってくるような気がしています。もう生姜とネギの冷や奴と納豆で満足なのです。でも当たり前といえばこれほど当たり前のことはありません。人は歳をとるのですから。
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