ロング・グッドバイ

鍼灸治療

10年ほど前の話です。当時90歳代半ばを過ぎていましたが頭も耳も目もしっかりした女性。8月生まれなのに書類では翌年の3月生まれになっているというザックリした時代のザックリした父親の話を聞かせてくれました。

腰痛などでシルバーカーを押して月に数回ペースで通ってきていましたが近所の友人が亡くなったり、施設に入ったりして居なくなっていくなか、本人はペースメーカーを入れていたことから、ある日「私、心臓止まらないから死ねないんじゃないかしら」と真剣に尋ねられたことがありました。

「いやいや、鼓動の調子が乱れないようにしているだけのキカイなので、その時が来たら心臓自体はちゃんと止まりますよ」と何だか慰めにもならないような答えをしていました。

彼女は70歳くらいの精神疾患のある息子さんと同居していて、いつも彼のことを心配していました。もう面倒見られないからケアマネに一緒に入れる施設を探してもらっているのだと言っていました。息子さんは他にも持病があり親子で訪問ヘルパーの世話になってはいましたが彼女が食事など身の回りの面倒もずっと見ていたのです。

1ヶ月半ほど来なかったので久々に予約の電話があった時は素直に「元気だったんだ」と思いました。こういう仕事をしているとこういうパタンはよくあります。定期的に来る患者さんなので間隔があくたびに心の片隅で気にかけていました。

「せがれが亡くなったんですよ…」無沙汰の言い訳をするように上着をカゴに入れながら淡々とそう言いました。そこには何と云うか僅かながらホッとした感じも漂っていました。

それから1か月間は身体の痒みも訴えていました。「来るのが億劫で」「最近身体が痒いのよ」「内科でもらった薬を塗っても治らない」とも。次の来院はその2週間後。体がだるくて腰も痛く「やっと来たわ」と言った彼女の身体には黄疸が出ていました。

丁度このあとケアマネジャーの訪問があるというので治療も早々に、既往から胆のう、胆管の病変が疑われるので通っている総合病院に連れて行ってくれる様、メモを書いて渡しました。

帰る時、彼女は恐縮していましたが靴を履くのを手伝い、玄関から外に置いてあるシルバーカーのところまで力なくスロープを下る後姿をこれが最後だなと思いつつ見送りました。

数日後ケアマネジャーから電話があり「年齢的にも本人も希望していないのでオペをせず、このまま入院して様子を見ることにしました」との事でした。息子さんの心配が無くなって心のつかえが取れた途端、今まで張りつめていたこの世への執着がすっかり消えてしまった様な妙にさっぱりしたあの後姿が印象的でした。

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